私たちが歴史を学ぶとき、そこには「一つの客観的な真実」が書かれていると思いがちです。しかし、特に古代の歴史書には、編纂した王権の「強烈な意図」が込められています。
なかでも、中国をはじめとする大陸の歴史書(正史)と、日本の『古事記』『日本書紀』(記紀)とでは、驚くほどその「書き方」が異なります。この違いを理解せずに同じ感覚で読んでいると、歴史の本来の姿を見失うことになります。
なぜ受け取り方を変えなければならないのか。その鍵は、古代日本の統治概念である「ウシハク(領はく)」と「シラス(知らす・統らす)」の違い、そして聖徳太子の時代以前から息づく「嘘をつけない」編纂プロセスにあります。
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1. 大陸の史書は「ウシハク(覇道)」の記録である
中国の『史記』や『漢書』に代表される世界の多くの正史は、一言で言えば「勝者のプロパガンダ」です。そこを支配する論理は「ウシハク(領はく)」、すなわち武力や権力によって土地や民を私有化し、支配するという覇道の精神です。
大陸の歴史は「易姓革命(えきせいかくめい)」、つまり王朝交代の歴史です。力のある者が前の皇帝を倒し、新しい国を作る。その際、新王朝が必ず行うのが「前王朝の歴史書を書くこと」でした。
彼らが歴史書を書く目的はただ一つ。 「前の王朝がいかに悪政を行い、自分たちがそれを倒して土地と民をウシハク(私有化)したことが、いかに正義であるか」 を証明することです。
そのため、大陸の史書は「不自然なほど完璧な一本の物語(ストーリー)」になります。勝者にとって都合の悪い異説や、前王朝の正当性は、国家の力によって徹底的に抹殺・隠蔽されます。敗者は弁明の余地なく「絶対的な悪」として描かれる――これがウシハクの歴史書の冷徹なルールです。
2. 『日本書紀』は「シラス(和の統合)」の記録である
一方で、西暦720年に完成した日本の『日本書紀』を流れるOSは、まったく異なります。それは「シラス(知らす)」、すなわち「この国にある全ての命や神々、多様な人々の営みを、まるごと大きな一つの『和』の中に包み込み、天皇が祭祀を通じて鏡のように見つめ、知る」という統治精神です。
天皇は土地や民を自分の私有物として「ウシハク」する存在ではなく、国家全体の安寧を祈る精神的中心でした。この「シラス」の精神は、歴史書の書き方にも強烈に現れています。
その最大の証拠が、本文のあとに何度も登場する「一書に曰く(あるふみにいわく)」という記述スタイルです。
『日本書紀』は、ある神話や歴史的事件について、朝廷の公式見解(本文)を書いたあと、「別の古い記録にはこう書いてある」「こちらの豪族の伝承ではこうだ」と、意味の異なる異説をそのまま何パターンも列挙しているのです。
もし『日本書紀』が、天皇や特定の権力者のウシハクを正当化するためだけの嘘の書物(プロパガンダ本)であれば、こんな不器用な書き方はしません。自分たちに都合の良いストーリーだけを一つに統一し、他氏族の異説など揉み消せば済む話です。それをあえてすべて書き残した。ここに、世界でも類を見ない『日本書紀』の圧倒的な客観性と、歴史に対する誠実さがあります。
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3. 聖徳太子以前から息づく「独り断ぜず、衆と共に論ふ」精神
なぜこれほど多くの異説が残されたのか。それは、記紀が作られた具体的な編纂の流れを知れば一目瞭然です。
天武天皇が歴史書の編纂を命じたとき、ゼロから物語を作ったわけではありません。もともと皇室に伝わっていた大王の系譜である『帝紀(ていき)』や、神話・伝承を記した『旧辞(きゅうじ)』をベースにしつつ、さらに日本各地の有力豪族たちがそれぞれの家に先祖代々伝えてきた歴史(家伝や記録)を国がすべて集め、それらを総合して編纂したのです。
聖徳太子は「十七条憲法」の第一条で「和を以て貴しとなす」と謳い、最終第十七条では「夫れ事は独り断むべからず、必ず衆と共に論ふべし(物事は独断せず、必ずみんなで議論して決めよ)」と定めました。
しかし、この精神は聖徳太子が突然思いついたものではありません。それより遥か昔の神代の「天の安河原(あめのやすかわら)の神々の合議」の時代から、この国に深く息づいていた文化でした。
記紀の編纂プロセスそのものが、まさにこの「独り断ぜず、衆と共に論じた」結晶なのです。朝廷による一方的な押し付けではなく、「この国を形作ってきたすべての主役たちの記憶をひとつに持ち寄る共同作業」でした。
本文のあとに続く「一書に曰く」の正体こそ、まさに「集められた各豪族の家の記録(バージョン)」そのめです。 中臣(藤原)氏に滅ぼされた蘇我氏の伝承も、大伴氏や物部氏の先祖の活躍も、時には彼らの失敗や失脚の不名誉な経緯(任那四県割譲の事件など)までもが、消されることなくそのまま国家の公式記録に包み込まれました。
4. もし嘘であれば、皇室の長き歴史は続かなかった
ここで、政治や権力闘争のリアルな力学を考えてみてください。
日本は、中国のように前王朝の人間を赤ん坊まで皆殺しにするような血の断絶を経験していません。政争で没落した豪族であっても、その子孫や家系は地続きでずっと生き残り、朝廷の役人として、あるいは地域の名士として存在し続けました。
もし、完成した『日本書紀』が「勝者(天皇家や藤原氏)にとって都合の良い嘘八百の書物」であり、敗者や他家を不当に貶めるような不誠実な記述をしていたならば、一体どうなっていたでしょうか。
生き残った誇り高き有力豪族たちから、 「この公式記録は真っ赤な嘘だ!我が家に伝わる真実の歴史(家伝)はこうだ!」 という反論の書、対抗する歴史書が必ず各地から次々と出現し、朝廷の正当性を激しく揺るがしていたはずです。しかし、歴史上そのような決定的な反逆の書は現れませんでした。各豪族が「一書に曰く」という形で自らのアイデンティティを内包してくれたこの国史に、納得し、合意したからです。
もしこれが、嘘で塗り固められた「ウシハク(私的支配)」のための書物であったなら、天皇という地位はたやすく「嘘を暴かれ、力で奪い取るべき究極の利権(ターゲット)」になっていたでしょう。
諸豪族が歴史を共有し、皇室を「シラス」存在として仰ぎ続けたからこそ、激動の歴史の中でも誰一人として「天皇の地位そのものを奪って自分が皇帝になろう」とする者は現れず、皇室の長い歴史(万世一系・男系の維持)という世界唯一の奇跡が守り抜かれたのです。
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まとめ:近代の歪んだ色眼鏡を外し、「素直に受け取る」ということ
戦後の日本の歴史学は、マルクス主義的な「階級闘争(支配・被支配)」や、大陸・近代西洋的な「ウシハク(国家による民の搾取)」の物差しだけで歴史を裁こうとしました。その結果、 「日本書紀の、日本に都合の良い記述(半島との外交関係など)は嘘だ。都合の悪い記述(戦争の敗北など)だけが真実だ」 という、学問として完全に論理破綻した二重基準(ダブルスタンダード)で自国の古典を貶めてきたのです。
しかし、土の中から掘り起こされる現代の考古学的ファクト(雄略天皇の鉄剣や、朝鮮半島南部から見つかる日本固有の前方後円墳など)は、常に「記紀の記述のほうが正しかった」ことを証明し続けています。
歴史書を読むときは、その国が持つ精神性と、それが作られた現実のプロセスに素直に向き合わなければなりません。 中国の史書が持つ「政治的パーフェクト(都合の良い一本化)」の裏にある意図を警戒すると同時に、日本の『日本書紀』が持つ「嘘をつけない不器用な誠実さ(各家の記録の総合)」と「シラスの和の精神」を、私たちはもっと素直に、重要視して受け取るべきではないでしょうか。
聖徳太子以前からこの国に流れる「みんなで論じ、和を貴ぶ」という精神。それによって編まれた1300年不変の国史と、一度も途切れることなく続いてきた皇室という圧倒的な現実こそが、この歴史書の誠実さを何よりも雄弁に物語っています。

