現代の日本の言論空間において、憲法改正や皇室典範の改正をめぐる議論は常に過熱しています。しかし、その多くは感情的なスローガンのぶつかり合いに終始しており、最も重要な「法理の急所」が見過ごされています。
特に皇位継承問題をめぐる議論は、一見すると「男系派 vs 女系派」の単純な二元論に見えますが、その底流では憲法第一条(天皇の地位は国民の総意に基づくという条文)をどう解釈するかという「三つのOS(思想構造)」が入り乱れて激しい戦いを繰り広げていました。
今回は、この知られざる三つの派閥の構造と、多くの保守層が陥っている致命的な「定義の罠」、そして議論の前提として知るべき「憲法と憲法典の違い」について解説します。
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皇室議論を分かつ「三つの派閥」の正体
皇室典範や皇位継承を語る言論界は、憲法第一条の捉え方によって、実質的に以下の三つに分かれています。
① 第一条を「定義(創設)」と捉える【女系派】
リベラル層や女系容認派の根底にあるOSです。彼らは憲法第一条を「戦後、主権者である日本国民が新しく天皇というポジションを定義・創設した」と解釈します。
② 第一条を「定義」という戦後史観に囚われている【保守主流 男系派】
現在、ネットやSNSで主流となっている多数派の保守層です。彼らは「男系伝統を守れ」と大声で叫びますが、実は法律の知識がアップデートされておらず、女系派と同じく「第一条=定義」という戦後OSの土俵に無自覚に乗ってしまっています。
③ 第一条を「確認(追認)」と捉える【先例派(保守)】
世界的にユニークでガラパゴスな東大憲法学に囚われず、憲政史の事実と日本の伝統を学んだ、ごく少数の保守自由主義の考え方です。彼らは「第一条は、神話の時代から連綿と続いてきた皇位の正統性を、戦後憲法という『紙の条文』のうえで現状確認(追認)したに過ぎない」と捉えます。
③の根底にあるもの:「憲法」と「憲法典」の決定的な違い
なぜ③の先例派は、憲法第一条を「確認(追認)」と言い切れるのでしょうか。その根底には、「憲法(Constitution)」と「憲法典(Written Constitution)」の峻別(区別)があります。
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憲法典(紙の条文)とは: いわゆる「日本国憲法」として六法全書に印刷されている、全103条の「紙に書かれた最高法規」のことです。これは1946年に作られた、歴史の中の一点に過ぎません。
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憲法(国体・国柄)とは: 国家が数百年、数千年の歴史の中で紡いできた、独自の伝統、文化、慣習、そして「書かれざる根本規範」のすべてを指します。日本で言えば、2000年以上続いてきた皇室の伝統や、先人たちの経験則そのものが「真の憲法」です。
つまり、「成文法(憲法典)は、広大な不文法(歴史・伝統という本物の憲法)の海に浮かぶ小さな島」に過ぎないのです。イギリスは紙の条文がありませんが憲法は存在します。
逆にアメリカは歴史がない状態で国をスタートさせたという事情があり、そのため憲法典の元となる憲法(歴史文化慣習)がなかったため憲法典で新たに定義し発足したという経緯があります。本来イギリス式でよかったものを中途半端にアメリカ式をつまみ食いしているのが、現在の東大憲法学の八月革命説。現在の①と②の派閥になります。
第一条を「定義」とする①と②の派閥は、この区別がついていません。そのため、1946年にできた「紙の条文(憲法典)」が日本のすべての始まりであるかのように錯覚し、その文言の解釈ゲームに終始してしまうのです。
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「定義」か「確認」か:「国民」の意味が変わる決定的な分水嶺
この「憲法」と「憲法典」の理解の差は、条文にある「国民の総意」の「国民」が一体誰を指すのか、その前提を根底から変えてしまう決定的な分水嶺となります。
一条を「定義」とすると:現代の多数決で「なんとでもなってしまう」
憲法と憲法典を混同し、第一条を「戦後の新しい定義」だとする立場に立つと、そこに書かれた「国民」とは、「今この瞬間、日本に生きている有権者(現在の国民)」だけを指すことになります。
このOSに立った瞬間、国家の根幹である皇室の運命は、現代人の「その時々の世論や多数決」の支配下に置かれます。 近代の「男女平等」や「ジェンダーフリー」といった強力なリベラル論理を持ち出された場合、第一条=定義派は非常に弱くなります。「憲法14条の法の下の平等に反する」「世論調査で女系容認が多数派だ」と言われれば、現代の有権者の多数決によって、数千年の伝統であっても「なんとでもなってしまう(書き換えられてしまう)」のです。
守りたいはずの(②)が、無知ゆえに皇室をこの危険極まりないギロチン台の上に乗せてしまっています。
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一条を「確認」とすると:時空を超えた国民となり「なんともできなくなる」
一方で、「紙の条文(憲法典)の上位に、不文の伝統(憲法)がある」とする③の先例派の立場をとると、「国民」の意味は全く異なる壮大なものへと昇華します。ここでの「国民の総意」の国民とは、現在の有権者だけではなく、「過去に生きた無数の先人、今を生きる私たち、そして未来に生まれてくる子孫」までを含んだ、時空を超えた歴史的共同体としての「日本国民」を指します。
このOSに立てば、現代に生きる私たちは、数千年の歴史というバトンを一時的に預かっている中継ランナーに過ぎません。 したがって、いくら現代の有権者が世論調査や一時の感情的な多数決で「女系を容認しよう」と言い張ったところで、過去の先人や未来の子孫の意思を無視して、現代人の傲慢さだけで伝統を書き換える権限など1ミリも存在しない、すなわち「なんともできなくなる(不可侵となる)」のです。
この「書かれざる憲法(国体)」の優位性、そして現代人の越権行為を許さない強靭なロジックがあったからこそ、近代の強力な男女平等論に絡め取られることなく、今回の皇室典範議論を薄氷の上で死守することができたのです。
結び:スローガンから「大人の教養」へ
「正論を言っていれば勝てる」と思っているうちは、精徹な法理の戦い(インテリジェンス戦)には勝てません。実は戦前も似たような構造で正論は敗北しました。
紙の条文に書かれた文字だけに捉われるのは、思考の視野狭窄です。
現代の多数派保守が、ただ大声で叫ぶ保守を卒業し、この国を本当に守るために教養(知識ではありません)を身に付け「保守自由主義」へと脱皮するためには、憲法典の文言に惑わされない歴史の視座と、先例を重んじる「本物の教養」を腹に据えることが不可欠です。
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参考文献
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倉山満 『嘘だらけの憲法記念日』 扶桑社、2014年
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倉山満 『皇室の危機を救う憲政史』 扶桑社、2022年
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エドマンド・バーク(佐藤健志訳) 『新訳 フランス革命の省察』 PHP研究所、2020年

