現代の中国の子供たちや、中国語を学ぶ外国人が、どのように漢字の発音を勉強しているか知っていますか?
実は、彼らは「アルファベット」を使っています。 「ピンイン」と呼ばれるローマ字の発音記号を使って、「東」という漢字は「dong」と発音する、という風に学んでいるのです。
「漢字の本家本元なのに、なぜ西洋のアルファベットに頼っているの?」と思いませんか? 実はここには、モンゴル史家の宮脇淳子先生なども指摘されている、中国語の「発音が記録できない」という2000年来の壮絶な悩みの歴史がありました。今回は、日本人が知らない「文字と発音」をめぐる日中逆転劇をご紹介します。
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「ひらがな」がない!漢字しかない文明の致命的な弱点
私たち日本人は、漢字のほかに「ひらがな」や「カタカナ」を持っています。これは「音」だけを表す便利な文字(表音文字)です。 おかげで、難しい漢字があっても「東(ひがし)」とフリガナを振れば、子供でも100%同じ正しい発音で読むことができます。
しかし、中国には漢字しかありません。 漢字は「意味」を表す文字(表意文字)ですから、文字そのものを見ても「どう発音するか」という情報はどこにも書かれていないのです。
アルファベットもひらがなもない時代、古代の中国人は「新しく作った漢字の発音を、どうやって全国民に正しく伝えるか」という無理難題に直面することになりました。
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鮮卑(せんぴ)が作った、究極の音パズル「反切(はんせつ)」
この難題に挑んだのが、5世紀から6世紀にかけて中国北部を支配した遊牧民族「鮮卑(せんぴ)」たちが建てた王朝の時代でした。彼らが編み出した発音の記録方法が、「反切(はんせつ)」と呼ばれる音の足し算パズルです。
例えば、「東」という漢字の発音を数式のように表すため、次のような2つの漢字を持ってきます。
【東(dong)の発音 = 「徳」 + 「紅」】
- 前の文字「徳(de)」から、**頭の音(子音:d-)**だけを盗む。
- 後ろの文字「紅(hong)」から、**後ろの音(母音:-ong)**だけを盗む。
- この2つをガッチャンコして、**「d + ong = dong(東)」**と読ませる。
これを当時の辞書(切韻など)には「東は、徳紅の反(または徳紅切)」と記録しました。文字だけで音を表現する執念のシステムですが、これには笑うに笑えない「致命的なバグ」がありました。
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「恩師の訛り」で国中の発音が崩壊する地獄
この「反切(音の足し算)」が成り立つには、大前提として「ベースになる『徳』や『紅』という漢字を、全員が全く同じ綺麗な発音で読めていること」が必要です。
しかし、中国はもともと地域によって言語がバラバラの国です。
もし、発音を教えてくれる先生(恩師)に地方の強い訛りがあったらどうなるでしょうか。先生が「徳」や「紅」を訛って発音していれば、当然、それを足し算した「東」の音も完全に狂ってしまいます。 そして、その訛った音で育った生徒が大人になり、次の世代に教えることで、訛りはネズミ講式に全国へ拡大していきました。
「文字を記録する辞書はあるのに、先生の訛りのせいで、世代交代するたびに全国の発音がバラバラになっていく」 これが、近代にいたるまで中国を悩ませ続けた発音教育の限界だったのです。
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日本の「ひらがな」がいかにチート(最強)であるか
この中国の苦難の歴史と比較すると、日本人が平安時代に生み出した「ひらがな・カタカナ」がいかに天才的な大発明だったかがよく分かります。
日本人は、漢字の「意味」をすべて削ぎ落とし、純粋に「1マス1音」を表す記号としてひらがなを作りました。
- 中国の歴史:「『東』の音は、ええっと、徳の頭と紅の後ろを足して……(先生が訛ってたら終了)」
- 日本の歴史:「『東』は『ひがし』と読みます」(一瞬で、誰が読んでも100%同じ音を再現できる)
日本が明治維新の際、短期間でスムーズに「全国共通の標準語」を教育できたのは、このひらがなのおかげです。発音の「ブレ」を完全にシャットアウトできる最強のツールを、日本人は1000年も前から標準装備していたのです。
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プライドを捨てて「アルファベット」を導入した現代中国
20世紀に入り、中華人民共和国(現在の共産党政府)が誕生したとき、やはり最大の問題になったのが「文字も読めず、言葉(発音)もバラバラな数億人の国民をどう教育するか」でした。
自前の漢字だけでは、どうしても「誰が読んでも絶対に訛らない共通の発音記号」を作ることができなかった中国は、1950年代、ついにプライドを捨てて西洋の「アルファベット(ピンイン)」を公式に導入することを決めました。
「漢字の読み方を教えるために、アルファベットという他国の文字を借りてこなければならなかった」という事実は、漢字という文字の限界を物語る、歴史の非常に皮肉な一幕です。
まとめ:文字に振り回された中国、文字を支配した日本
こうして振り返ってみると、日中の文字文化には面白いコントラストがあります。
- 中国: 最高の文字「漢字」を生み出しながらも、発音を固定する文字を持たなかったがゆえに、2000年間も訛りと分断の地獄に苦しみ、最後はアルファベットに頼った。
- 日本: 中国から漢字をインポートしつつも、自分たちで「ひらがな」という最高のナビゲーターを作り出し、発音と文化の統一を軽々と成し遂げた。
私たちが普段、何気なく漢字の横に振っている「ひらがな」のルビ。実はそれこそが、本家中国が喉から手が出るほど欲しがった、人類の言語史における「最強のチートツール」だったのかもしれません。
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追伸:台湾が「アルファベット(ピンイン)」を使わない理由
実は、中国語を話す地域の中で、台湾だけは頑なにアルファベット(ピンイン)での発音教育を拒否し続けてきた歴史があります。
では、台湾の子供たちはどうやって漢字の発音を学んでいるのでしょうか? 彼らが使っているのは、「注音符号(ちゅういんふごう)」、通称「ボポモフォ(Bopomofo)」と呼ばれる独自の表音文字です。
【注音符号の例】
「 ㄅ (b) ㄛ (o) ㄇ (m) ㄈ (f) 」
漢字の一部を切り取って作られた、日本の「カタカナ」にそっくりな文字です。
ここには、台湾の非常に複雑なアイデンティティが隠されています。
- 中国(共産党)への対抗心: 1949年に中国大陸から台湾へ渡ってきた蒋介石の国民党政府は、「文字をアルファベット化(西洋化)した共産党こそ漢字の伝統を破壊する偽物であり、自分たちこそが正統な中華文化の継承者である」と主張しました。そのため、アルファベットではなく、あえてこの独自の中華風表音文字を使い続けたのです。
- 台湾人の複雑な胸中: 一方で、もともと台湾に住んでいた人々(本省人)の祖語は、福建省の言葉(台湾語)でした。彼らにとって、後からやってきた国民党が強要する「北京語(現在の台湾華語)」は、いわば“第二の押し付けられた言語”でもありました。
現代の台湾では、この「ボポモフォ」がスマホの入力や子供の教育にすっかり定着し、中国大陸のピンイン(アルファベット)に対する「台湾独自のアイデンティティの象徴」になっています。
同じ漢字を使い、同じような北京語ベースの言葉を話していても、発音をどう記録するかという「文字の選択」ひとつに、これほど凄まじい政治と歴史のドラマが隠されているのは、本当に興味深いことですね。

